聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明氏が2017年7月18日、105歳の天寿を全うされました。日野原氏は、「人間ドック」の考案、「生活習慣病」という呼称の定着を通して予防医療の礎を築き、100歳を超えてもなお現役医師として患者と向き合ってきました。この記事では日野原氏の功績をまとめ、追悼します。
日野原氏は医師、教育者、著述者など精力的に活動しながらも、いつも笑顔を絶やさず、人の話を丁寧に聞く姿勢を貫いていました。人々や社会に貢献したいという強い情熱があったからですが、それは、濃厚な読書体験と価値観を覆すような体験がもたらしたものです。
まず高校時代には、哲学者マルティン・ブーバーの著書『かくれた神』を読み、老いの問題への哲学的探究心を刺激されたといいます。やがて京大医学部、京大病院の医局を経て1941年聖路加国際病院に移ります。戦争中は、学生時代に患った結核の影響で徴用されず病院で診療を続けますが、物資不足で十分な医療ができず無念を覚えます。
戦後、聖路加国際病院は米軍に接収され、付属図書館に多くのアメリカの医学書が並びました。そこで日野原氏はウィリアム・オスラーの著書『平静の心』に出会います。オスラーはすでに故人でしたが、その著書から患者本位の姿勢、病気を治すのではなく、病気を防ぐことの重要性などを学びました。
1951年39歳のときには、1年間の米国留学を果たし、オスラーの薫陶を受けた人々から直接多くを学びました。
帰国後、ますます精力的に活動し順調にキャリアを重ねますが、1970年、人生観を一変させる事件が起きました。学会に出席するため搭乗した日航機よど号がハイジャックされ、人質として機内に監禁されたのです。
3日後、政府の交渉により乗客は全員解放され、日野原氏は機内から地上に降り立ちました。そのとき、感謝の念とともに「これからの人生は与えられたものだ。誰かのために使うべきだ」と心に誓ったのです。
その後、日野原氏は自らのキャリアを顧みず、人々のために尽くすことに邁進します。1973年には財団法人ライフ・プランニング・センターを立ち上げ、「病気を治す」ことから「病気にならないこと」に主眼を置いた、予防医療の確立に尽力します。さらに、当時は医療行為とみなされていた血圧の測定を家庭でできるように厚生省と掛け合い、血圧計の使い方を一般に普及させました。
続いて、「成人病」と呼ばれていた高血圧や高脂血症、糖尿病に対して「生活習慣病」という新たな名前を考案し、その普及に努めました。これにより、成人になったら「成人病」になるのは仕方ないという思い込みが、生活習慣を見直すことで「生活習慣病」は予防できるもの、という認識に変わりました。
極め付けは「定期健康診断」の開始と普及です。定期的に身体の手入れを行うことで、病気を未然に防ぐことを提唱したのです。のちに健康診断を体験した新聞記者が、この制度を船の点検・修理をするドックになぞらえ、「人間ドック」と報じたことからこの呼び名が定着しました。
今では、生活習慣病予防や健康診断などを組み合わせた「健康経営」が注目されるなど、予防医療は広く社会に浸透しています。
予防医療の普及により長寿社会が到来し、健康な高齢者が増えたことで、どのように老いるか、どのように人生の最期を迎えるかがクローズアップされるようになりました。その要請に応えるため日野原氏は、1993年多くの人の支援を受け、神奈川県に日本初の完全独立型ホスピスを設立、緩和ケア、ターミナルケアを導入し、終末期の患者が尊厳を持って死を迎えられる拠点としたのです。
さらに、2000年には75歳以上の人をシニア会員とする「新老人の会」を設立します。新老人という呼称には、ただ年を取った人ということではなく、老いを受け入れ、生きがいある人生を送り、この世代でなければ果たせない社会貢献をする人、という意味が込められています。
同じく2000年、ベストセラーの絵本「葉っぱのフレディ」をミュージカルにすることを企画し、自ら脚本を担当。舞台にも立つなど若い世代との交流を通して、どのように生きるかを幅広い層に伝える活動にも従事しました。
日野原重明氏は、一人でも多くの人が人生の最後に際して尊厳を保ち、感謝の心で家族との最後の別れを果たし、与えられた人生を生ききったと思えるよう、最後まで活動したのです。その生涯は、まさに自らが望み普及させてきた理想の生き方そのものではないでしょうか。
予防医療の基礎を作り、終末期医療の普及に多大な貢献をした日野原重明氏。死をどう生きるかという命題に正面から取り組み、105歳で亡くなる直前まで活動的に過ごされました。自ら範を示し、人生を生ききったその生涯は、人々の記憶に長く留まることでしょう。